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焚火で組織を変える社長の日記

〜 代表取締役・焚火研究家・大学院生・父親・トライアスリート、そしてサーファーとして。
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「高価で低品質」を生みだすカラクリ


毎年早期化を起こし、今や大学3年後半には就職活動がスタートする。

僕が大学生だった95年はまだ青田刈りが残り、本格化は4年の4月くらいだったのを記憶している。半年以上も活動が早期化し、大学生になって2年ちょいでもう就職の選択を余儀なくされる。

まぁ4年の4月だろうと3年の10月だろうと実質的には何も変わらないのだろうが、それ以上に昨今の景気による学生の振り回され方は相当のインパクトだろう。

しかし、どうやら振り回されるのは、学生だけでない。ワンストップサービスなどと都合がいい人材派遣・紹介会社の「新卒採用コンサルティング」に翻弄される企業も少なくない。



この季節、組織変革コンサルティングを行うのと同時に、新卒採用のサポート依頼をされる。言ってみれば絶対切っても切れない密接の関係にあるものだから、当然と言えば当然。

プロジェクトに参加すると、どこも同じ不満を聞く。そのナンバー1に挙がるのが、「新卒採用コンサルティング」会社への不満である。

リクナビや毎コミといった情報掲載料はともかく、学生集めから内定までの一貫したコンサルティングを謳って高額なコンサルティング料をとっているにも関わらず、やっていることはただの「学生集め代行」にすぎないという。


実際に、ある某有名新卒採用コンサル企業が既に入っているクライアントの“影のサポート”を依頼され調査したが、その“高額で低品質”なコンサル内容には驚愕。

学生を集めたまではいい。説明会では担当者が学生と同じタイミングで現れ、終了と同時にフィードバックもなく帰っていく。面接のアドバイスもなければ、内定辞退防止に「高級料理屋での食事会」などという金をどぶに捨てるようなナンセンスな意見を出す始末。

その社長は、はっきりと言っていた。

「人材屋の新卒採用コンサルには、何も期待していない。学生集めレベルで充分だ」と。正しい判断だと言える。



情報媒体の掲載記事から内定者防止プロジェクト、および新人研修まで組織変革コンサルティングと整合させて行う経験、および過去に5000人以上のレジュメやCVに目を通し、日本人だけなく多くの人種を面接をしてきた採用経験の中で、あらためてシンプルだが明確な確信と結論に達した。


「本当の意味での採用コンサルティングは“極めて”難しい」という事実。

つまり、求職者を切った張ったする担当営業レベルには「採用コンサルティング」は1000%“不可能”だということ。いや、正確には人事部出身や経営者レベルでないと本当の意味での採用コンサルティングはできないということ。

派遣会社や紹介会社など、企業が求める人材を雇用形態を問わず「紹介」するのは誰にでもできる。企業が△という人材を求めていたら、自社の登録の中から△を見つけて持っていけばいいのだから。しかし、それは間違っても採用コンサルとは言わない。


「採用コンサル」とは、企業の理念や方向性を理解し、それに沿った募集から採用方法・面接内容・仕組みや文物まですべてを戦略的にクライアント共に進め、実績をあげることだ。フィットしそうなレジュメを持って行き、面接をセッティングするだけのレベルとは、求められる経験・知識・思考深度は別次元のもの。


ゆえに、そもそも学生から人材会社に入って数年やそこらで、転職も人事も経験したことがほとんどのない人間が企業の経営者相手に「採用コンサル」など天地がひっくりかえってもできるわけがない。そんなことは当然の話だ。年間何百人と面接経験がある大手の人事部トップでさえ、時にはミスマッチを起こすのだ。

採用経験や経営を知らない人間がアドバイスできるレベルなど低品質、場合によってはロクでもない迷惑なアドバイス以外の何物でもない。とはいえ、経営者の誰もが採用が得意なわけではないだろう。だからこそ、藁をもつかむ思いで採用コンサル会社に依頼する。


ここに負のスパイラルが生まれる…頭の痛い話だ。


貴重な採用予算を無駄金にしないためには、その採用コンサル会社が単なる『学生集客代行屋』なのか、担当者が人事や採用経験に豊富か否かを事前に確認することしかないのかもしれない。


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競争は本当に「悪」なのか?
ここまできたか…。落胆を感じざるを得ないニュースが流れる。

鳥取県の小学校では学級委員がいないという。戦後最大の国家の教育方針ミスともいえるであろう「ゆとり教育」の弊害の一つだろう。その裏には人権団体なるものが暗躍しているという。


その団体によると、その理由に「学級委員になれなかった子供が傷つく」ことを挙げているらしい。学級委員になれなかったことに対するコンプレックスや挫折感が格差社会を生むと…。


学級委員ということは多分率先しては班長すら推奨していないのかもしれない。それは運動会の徒競争でも同じで、足の遅い子供には近道ルートが設定され、全員が1位となるようになっているらしい。

学級委員の有無や勝ち負けのない運動会は一つの事例にすぎない。



これらを大きな枠でとらえると、『多人数の中で1名もしくは少数名しか選出されず、選出から洩れる者がいる環境』を“悪”とする考え方に基づくのだろう。

洩れるから=選ばれなかったから→傷がつく→だから良くない、とこういうことか。
そうだとすると、あまりにも短絡的すぎないか。


そもそも小学校における「誰も傷つかない環境」が本当に子供たちの将来のための土台となりうるのか。生涯トラウマになるような傷は確かに避けるべきだが、その回避する策が学級委員不在案や徒競争全員1位案が果たして優先順位が高い解決策なのか。


傷つかない「守りの環境」を作る一方で、阻害されるべきでない「攻め」の要因 -リーダーシップや欲しいものや夢を手に入れるための努力-まで犠牲にしてはいないだろうか。





どちらかをとれば、どちらかを捨てなければならない関係性にあるものも存在するだろうが、今後の負のスパイラルが渦巻く世の中で逞しく生きることを余儀なくされるこれからの子供たちのことを本当に考えると、鳥取県がとっているこれら施策はどうもしっくりこない。


ただ、すべてがすべて競争社会が良いとはいうつもりはない。

しかし、かといって競争意欲のない、または競争に強くない子供を県として大量生産することは、その県の発展にとってもそして中長期的には国家にとってもあまりいいことだとは思えない。


子供たちの「傷つくことから守る」環境を作る前に、社会人経験も人生経験もほとんどない20そこらの教育社としては『極めて未熟な大人』をそのまま『先生』として教員採用する仕組みのほうが先に改善すべき課題ではないだろうか。


どれだけ議論しても解決するのは難しい教育姿勢だが、少なくとも子供は教育者を選べない。親はその視点に立ってどう育てるかを考えなければならないのだろう。



複雑な思いである。
身体と心のケア
本格的に始まったアドベンチャーレースのためのトレーニング。
しかし昨年11月、20kmのトレイルランニングで膝を痛めている。

平地を走っている分にはほとんど痛みはないのだが、山岳トレーニングの特に下りになると走れなくなるほど痛みが出る。下りは最高に気持ちいいのに、走りたいのに走れないストレスは相当。


しかも今年はアドベンチャーレース3戦、第2回富士登山、マラソン2戦が控えている。しかも、2009年最後の大イベント、71.5kmの24時間山岳マラソン「ハセツネ」が立ちはだかる。


無理しては今年だけでなく生涯爆弾を抱えるリスクもあるから、十分に治療しなくては…トレーニングの度に悩む。



ある時、サプリメントをはじめ栄養学に詳しい人物に出会うことができた。

症状を一通り話すと、様々な知識があふれ出る。彼の知識やアドバイスは昨年レースの身体作りのためにかじり始めたサプリメントによる栄養補助摂取への興味と摂取を再燃させるのに十分だった。

体内合成の可/不可に始まり、どのサプリがどの症状に良い、だけのレベルではなく、成分の何がどのように働くのか、など非常に詳しく教えてくれる。もちろん細胞レベルの話はただただ頷くだけしかできないが、ここまで詳しいと信じたくなる。


そして今回摂取し始めたのが、コンドロイチンとグルコサミン他を含む膝関節系専用のサプリ。それだけで1日12錠も摂取しなければならないのだが。結局、現在、ビタミンCをはじめ、マルチミネラル・セサミン・Q10等いくつものサプリを摂取している。

とはいえ、所詮サプリはサプリ、栄養補助であり適切な食事と運動をおろそかにはできない。まぁ食事はあまり管理しているとは言い難いが、運動強度を上げて調節。1回のトレーニングで1000Kcal消費することもあるほど動くようにしている。


ただの運動好きなのか?時々分からなくなる。





しかし、答えは簡単にいきついた。


35歳を超えた今、自分の将来のために体をケアしなければならない。「心」はいつまでも若さを維持することはできても、生物学的に20代と同じ身体を維持するのは不可能なのだ。

医療関係に勤める友人の言葉を思い出す -「老化は元に戻すことができない」。

アンチエイジングというと美容っぽいイメージだが、身体も同様だと思う。健康でいなければ、すべてが無である。通常当たり前すぎて気にも留めない「状態」だが、実は人間が生きていく上で何よりも大切な人生構成要素。そして同時に、失って始めて気がつく、最も代償が大きい要素の一つともいえる。


将来を見据えた『今』から始めるべきこと。結局自分の未来は現在の一歩一歩の積み重ねでしかない。経営も同じだなぁと思いつつ、今日もサプリを口にする。



読書の難しさ

久しぶりの休みの週末。とはいえ、1日だけだが。
休みが取れる時の時間の使い方は毎回違うが、定着しつつあることもある。

それは読書。

その週末は波乗りに行こうと企んでいたのだが、あいにく強北風により最悪なコンディション。そんな時は迷わず読書。日が差し込むリビングで、ジャズを流してコーヒーを入れる。

朝早ければ早いほど気持ちいい。



読書は100%というほどビジネス書。当たり前であるが、最近書店でよく見かける著者の本も極たま~に手にしてみる。どこの本屋でも平置きにするほど売れているんだからさぞかし!と淡い期待と皮肉をこめて。


最近の流行りといえば、ブログでいきなり火がついたように売れまくっている女性会計士のKK氏。いろいろな出版社からマシンガンのように出版されている。ものすごい勢いである。

しかし、小説家は別として、主にビジネスの世界に身を置く著者がの本がたくさん出版されることと内容は多くの場合反比例する気がしてならない。KK氏の本をいくつか読んで非常にそう感じた。

中身がなく、無味乾燥な薄っぺらい言葉ばかり並ぶ駄作。

そして、休日の優雅な時間を無駄に過ごしたという後味の悪さが残る -無念。



多分その人が書いたというより、ゴーストが書いているのかもしれない -出せば売れるから。本が売れなくなっているという市場に反し、くだらない流行本が売れるというのは悲しいものだ。

ビジネス書に関しては、その著者本人の経験だったり生き様だったり専門分野が主たるものだろうから、たくさん出れば出るほど同じことの繰り返しだったり、ひどい場合はコピーだったりと内容が希薄化する。

1冊の濃いままの方が良かっただろうに…。それもビジネスの一側面なのか。


やはりいい本に出会うには、たくさんの本を読むしかないのだろうか。それも想定読者ターゲットをしっかり意識して、「選択と集中」をして自分にフィットするものを。

読書も難しいものだ…。
アフガンハウンドのように

高校生のころ読んだ本の一節が頭の片隅に残る。


題名は忘れてしまったが、その中で、何度も出てきた言葉があった。
確か松浪健四朗氏の本だったと記憶している。

「心(精神)・脳(あたま)・身体の贅肉を削ぎ落とせ」。

自分に厳しくあれ -自分を甘やかすことは他人を甘やかすことより悪い。己の生き方に潔く、常に勉学を重ね、体をシャープに保て -自分の思い通りの生き方をするために。

そんな風に言葉を咀嚼したのを覚えている。当時、自分の生き方や信念を探していた思春期(?)には強烈な考え方だった。




またアフガンハウンドの話もあった。アフガニスタンの山脈を起源とする猟犬なのだが、この犬、かなり凄い。

何が凄いかって、犬なのに腹いっぱいになるまでメシを食べないという。

猟犬なだけに、腹10分目では動けなくなり、狩りができなくなるのを本能的に知っていたというのだ。
(うちの愛犬はあればあるだけ食べるというのに。)

松浪氏はこの例をあげ、常に人間も戦闘状態にしておくべきだと書いてあった。戦闘状態といっても文字通りの意味ではなく、“常に自分の生き方に真摯で貪欲な状態”を指すのだと理解している。




それが自分の人生の中心軸になろうとは、全く思っていなかった。

タフに信念を持って逞しく生きる -大学時代、そして社会人黎明期は無意識にもそんなことを考えながら過ごしていたのだと今になって気がつく。

それは経営者になってよくこの言葉を思い出す。利益だけがすべてではなく、生きる思想や哲学・美学をも求められるのが経営者だと思う。いや、経営者だけでないかもしれない。魅力的な大人はみな誰しもそれらを持っているものだ。


『華麗なる不良中年』 -これが人生の折り返し40歳以降のライフテーマ。

そのためには、やはり前半戦から心・脳・体の贅肉を削ぎ落とし、常にスマートでいなければならない。


そう考えると、なぜ座禅に通い、なぜレースにこだわり、なぜ勉強を続けるのか、答えが簡単に出る。
意外と現在の自分の行動の原点は、シンプルなところにあるのだと気がつく。
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