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焚火で組織を変える社長の日記

〜 代表取締役・焚火研究家・大学院生・父親・トライアスリート、そしてサーファーとして。
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変える?変わらない?
卒業式以外の大学院関連が終わって1週間。

まだ仲間とのイベントは毎週末 5週間にわたって続くが、授業が終了した今は生活パターンが激変している。


2年次前期までの1.5年は、平日夜3日間は毎週授業で深夜帰宅。土曜日も朝から晩まで大学内で過ごす。2年次後期は授業のコマ数は減るものの、修士論文という重い重いイベントが数ヶ月間続く。


そんな生活から一気に解放されるのだ。

時間に余裕ができた分、喜び勇んで仕事仕事!となるわけでもなく。

かといって毎晩飲み歩くかというとそんな機会が突然増えるわけがなく。




この2年間は、自分の人生でどんな位置付けであり、どんな影響を与えたのだろうか。

それを冷静になって良く考える。


単なる「頑張ったな、俺!」的な自己満足ではなく、『具体的に何を手に入れ、具体的にどう変わったのか』を考察し、それを『どう具体的に活かしていくのか』を見極めなければ意味がない。

ほぼ終了した今、大学院の意味を論理的に大観的に客観的に捉え直し咀嚼し、次へのステップへの糧にしなければ、この2年間は「頑張った俺的想い出作り」になってしまう(いや、それが目的ならそうで良いのだが)。


これまで授業や論文に充てていた、今では空いている時間にふと考える -次は何だ? と。

今のところの答えは2つ。一つは、バイリンガルなのに英検4級しか保持していない現状を反省して『英語の公式記録化』。もう一つは、より仕事と研究に役立てる土台知識として『行動心理士』の資格取得。

1年以内にできてしまうショートプログラムではあるが。




確かに、在籍者の十数%だけが選ばれる『優秀論文』は頂いた。

これまで指導してくれた教授2名には心から感謝しているし、その想いにウソなない。


しかし究極を言えば、学校全体でみれば相対比較ではなく、主査と副査のお口に合えば「優秀」となるといっても過言ではない。つまり「優秀」の定義は教授によって極めてバラバラであり、優秀論文にノミネートした論文でも雲泥の差があるということ。そして、それが学術的に素晴らしいか、単なる大学院生が書いた“読み物”として素晴らしいのか、の判断もそこには存在しない。


そう考えると、この貴重な大学院に投資した時間と労力とお金に対し、『自分のリターンをどのように位置づけるか』が今後の実りをもたらすカギであるように思う。


そこには2つの選択肢しかない -変えるか? vs 変わらないか?

もっともっと自分との対話の中で議論すべき課題だ。
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Give & Give & Give
相談を受けた -どのようにヒトの上に立ち、どうしたらヒトがついてくるのかと。

思うように周りを動かすことができず、自分ひとりで走り回り疲弊してしまうとのことだった。そして自分が頑張ったからには…と無意識にも何らかの見返りを期待してしまう。そして、上手くいかない自分自身の現実に落ち込む…と。


大学院の仲間ゆえ、その人のキャラクターはとても良く分かっている。今年は自分を変えたい!きっとそんな想いからの悩みなのかもしれない。

しかし、難しい質問だ。

少なくとも、どのようにしたらヒトの上に立てるかは分からない。知らない間に立っていることが多いから。でも、ヒトがついてくるかどうかはなんとな~くだが、分かる気がする。

それは、『Give&Give&Give』という行動。



「情けは人のためにならず」という諺があるが、同種のモノのような気がする。

誰かのためを思って行動していると、自然とそれが自分に跳ね返ってくる。いわば鏡の法則とも言えるかもしれない。

例えば、飲み会をまとめるのも旅行を仕切るのも、一人で全てを抱え込む必要はなく、自分がメンバーのために率先してイニシアチブをとれば協力してくれる。いつも動いていれば、協力しないと悪いな…という無意識に感じるのが人の常。

それをやらずして、指示一つでヒトを動かすのは、上意下達の組織か恐怖政治くらいなものだろう。

だから常にGive&Give&Giveが、行動の原点。





一方、受け手に視点を当てると、これまた難しい。

想いや気遣いを感じない、もしくは自分の気持ち・気分や都合が優先で、ヒトのそういう優しさや気持ちは後回し。その人を大切にしたいと思い続ける「純たる想いから生じる行動の尊さ」を理解していない。

悲しいかな、そんなヒトも存在する。そして多くの場合、ずっとそうやって生きてきたのだろうし、表面的な感謝すぐに見抜かれる。そういう人は、きっと友人も少なく寂しい人。


良く言われることではあるが、「お土産は自分を思って選んでくれるという、その“気持ち”が嬉しい」- と。

特に利害関係のない友人や恋人の関係性においては、誰かの誰かに対する「行動」は、その人の想いが詰まっている。「想い」がなければ、絶対に「行動」にはつながらないし、それが継続することもない。そしてその行動には、友情や愛情、時間と労力と、そして時にはお金も動く。



そういった想いが詰まった行動表現に対し、僕は敏感でありたいと思う。理想論かもしれないけど、自分が他人を想う言動が伝わらなくとも、他の人から受ける行動という具現化した想いはちゃんと認知し、それに感謝したい。


それにはやはり、Give & Give & Give - 人間関係を潤滑化するスタンスが、まずは大切なのかもしれない。
ハーバードを覗き見?
最近ちょっとコマメに対応するよう意識しているFACEBOOKで、ある社長仲間の投稿が響いた。

その出所は不明だが、とても心に訴えかけられるものであった(もしかしたら見かけた方もいるかもしれない)。


- それは、「ハーバード大学図書館、朝4時の風景」であった(以下引用)。

at 4 am



***

今の自分の努力などまだまだ足りない。
そしてその努力を楽しむ思考回路を手に入れなければ世の中に価値のある人材になどなれない。

待っていても何も訪れない。願っていても何も訪れない。
行動に移さなければ待っているのは、世の中にとって価値のない人材、ただそれだけである。


ハーバードの図書館には20の教訓があり、学生達は日々これを意識して学生生活を過ごす。

1. 今居眠りすれば、あなたは夢をみる。今学習すれば、あなたは夢が叶う。
2. あなたが無駄にした今日はどれだけの人が願っても叶わなかった未来である。
3. 勉強に励む苦しさは今だけであり、勉強しなかった苦しさは一生続く。
4. 明日やるのではなく今日やろう。
5. 時間は絶えず去りつつある。
6. 学習は時間がないからできないものではなく、努力が欠くからできないものである。
7. 幸福には順位はないが、成功には順位がある。 
8. 学習は人生の全てではないが、人生の一部として続くものである。
9. 学習する事が人生の全てとは言わないが、学習すらできぬものに何ができるのであろうか。
10. 人より早く起き、人より努力して、初めて成功の味を真に噛みしめる事ができる。
11. 怠惰な人が成功する事は決してない、真に成功を収める者は徹底した自己管理と忍耐力が必須である。
12. 時間が過ぎるのはとてもはやい。
13. 今の涎は将来の涙となる。
14. 犬の様に学び、紳士の様に遊べ。 
15. 今日歩けば、明日は走るしかない。
16. 一番現実的な人は、自分の未来に投資する。
17. 教育の優劣が収入の優劣 。
18. 過ぎ去った今日は二度と帰ってこない。
19. 今この瞬間も相手は読書をして力を身につけている。 
20. 努力無しに結果無し。

***




アメリカのエリートらしい考え方だ…と思いつつも、非常に納得がいくものばかり。
教育や学問が人生のすべてとは思わない。頭の良し悪しが勝ち組/負け犬だとも思わない。

しかし、学び続ける姿勢というものは、人間に与えられたギフトであり能力であるとは思う。そして『努力なくして結果なし』-これはまさに真実。その努力の小さな小さな積み重ねだけが、結果を残す源泉である。


大学入学くらいまでは、誰もが入試という名の「努力」をするだろう。しかし、多くはそれ以降加齢と共に『努力率」は低下の一途をたどる。折しも、定期購読しているビジネス雑誌で興味深い記事が掲載されていた。


『継続して勉強していることがある』 : 年収500万 vs 2000万
YES ⇒ 23.7 vs 42.6%

何を「勉強」と称するかにもよるが、ほぼ2倍近い差があるという事実である。また日々の読書率:1.35倍、勉強ツールの携帯率:1.63倍、といずれも後者がグンを抜いていた。

それぞれの比較項目の中身は定かでないものの、ここで重要であるのは、『自身を高める努力』の意識差であろう。どれだけ行動できるか、それが将来の自分を決めるのは間違いないと思う。



大学院修了を目の前にして、これら20項目の内いくつが当てはまっただろうか?と自問自答せざるを得ない。なりたい自分を手に入れるには、やはりコツコツコツしかないのだ。


改めて自分を問い直すキッカケとなる光景であった。

パーティと絆
修士論文を提出し終わると、一気に気持ちが緩むのは皆同じ。

たとえそれが、口頭試問という最後の面接が残っていたとしても。


自分が属するゼミは、口頭試問だろうが「試験」には変わりないから手を抜くな!が指針である。したがって、口頭試問で聞かれるであろう質問は全てスクリプト出しし、ブレがないように覚えなければならない。

それはわかっていても、これまで論文の追い込みで数ヶ月間我慢してきた久しぶりの休みは騒ぎたい!口頭試問が終われば、それ以降はほぼ卒業!ということを考えると、何もあと1週間くらい我慢すればいいのだが…せっかくの3連休。


多少の緊張感も残す言い訳も合わせて、大学院の仲間と2連日ホームパーティと相成った。




15名程度のパーティであればケータリングは一切せず、アウトドア的な男料理を中心にサーブする。その多くは炭火で調理する豪快肉料理や見た目も味も素晴らしいダッチオーブン料理、そしてカレーやミネストローネなど大鍋料理。


初めての人は、豪快さと驚きとおいしさを。

そして、過去に来たことがある人がいる場合は前回と料理がかぶらないように。


もともとパーティは大好きだが、他人を家に招く、というのは簡単そうで難しい。呼ぶ側も呼ばれる側も、それなりの人間関係がなければ心地いいものではない。

さらに、2日連続でホストするのは慌ただしい。それに毎回少し豪華な外食と同じくらいコストはかかる。それでも、ホームパーティで醸成される親密な仲間感や絆は何にも代えがたいものだと思う。仲間とのつながり強化つまり凝集性向上には理論的にも「接近性」や「閉合性」が有効であることを考えると、投資に足る最高のイベントだ。




2年間の大学院、濃淡が二極化する人間関係。確かに修士論文という人生でもあまり経験しない苦楽は経験したが、個々人での取り組みであり共に協力し合って汗をかいたわけではない。

よって単なる知人レベルの関係は時間経過とともに薄れ、同窓会で交わされる表面的な付き合いになってしまう。それは過去のスクーリングや大学院の先輩たちの関係を見ても同じ。メンテナンスをしない人間関係は希薄化する一途をたどるのだ。


だからこそ、永く付き合いたい大切な仲間とは強い絆作りが必要だと思う。


たまたまこの連休はタイミングが合った仲間が集まったが、こうした時間や空間は意図的に創っていきたい -せっかく大学院の同期の中でも「戦友」として築き上げた特別な人間関係だから。

なぜなら、人生の豊かさは、仕事だけで決まるものではない。自分自身を取り巻く「人間関係の広さ × 深さ」がその質を決める一要素であると思うからだ。



十年後二十年後も、あの時はあーだった・こーだったと懐かしむことができる素晴らしき仲間になれるように、大切にしていきたい。

あと、10%。
1月10日木曜日 - 普段なら何の変哲もない日だが、僕にとっては一つの大きな区切りの日。


修士論文の提出日である。

2011年4月に大学院に入学した日から、このX Dayは決まっていた。この儀式を通過せずして卒業はあり得ない。2年次に上がってから、ほぼこの日を目途に過ごしてきたといっても過言ではない。

専門職大学院とはいえ、2万字以上の修士論文が卒業要件に課されている。そして博士課程とそれ以降のキャリアを視野に入れている僕にとっては、通常の修士課程で一般的に求められる4万字以上がマストであり、かなりの高品質を求められる。


それゆえに、高品質なアウトプットが求められることは入学当初から理解・覚悟していたし、1年次より2年生のゼミを聴講したり夏合宿に参加したりと、論文作成に向けてのゼミ的方法論や流れを事前に把握し、戦略的に効率かつ確実に準備をしてきた。

また通常2年次4月からスタートする修論も、自分がゼミ長を務めるからには少しでも後半のドタバタを避けるために2月から隔週でプレゼミ勉強会を始め、4月からトップギアで走ることができるよう仲間と努力を重ねた。


それが功を奏したかは分からないが、修論に対する気持ちは非常に高く維持したまま2年次を走ってきたように思う。





総計10万字・総数で125ページ。

書きたいことと、今は書くべきでないことを切り分ける迷いはあったものの、信頼できる2名の教授陣のおかげで明確な取捨選択をすることができた。

そしてその分、重要点にフォーカスを当て、国会図書館にも通って文献を漁り見識を深めることができた。またクライアントの協力に恵まれ、十分な母集団とはいえないまでも仮説を立証することもでき、学術的にもそれなりの新しい発見と貢献ができたのではないかと思える。


僕自身としては、多少途中でウニったりしたものの、方向性のブレや準備と助走は順調で、夏前には5万字を超えていた。文字数が多ければいいとは思わないが、心の余裕にはつながるのは事実(結局その5万字のうち3万字は、悲しくもデータ再収集&再分析を余儀なくされ、破棄することになったのだが)。


充実した日々。それが幕を下ろそうとしている。





提出日には1部だけ自宅でプリントアウトし、残りは大学院でコピーしようと計画。

オートフィード機能(自動送り機)を使用してコピーしたところ、15枚ほど束で吸い込み、落丁状態に陥るハプニングも発生した。また用紙の“色味”の問題やカラー/白黒設定で、再コピーを何枚も余儀なくされた。

提出時の物理的ミスは致命的で許されることではないため、再度の最後まで冷や汗をかいた。


そんなオチも含めて修士論文も90%が終了、ただ意外にも提出時の感動はなかった。それは、僕の中での修論提出はこれから始まる博士課程修了のホンの序章に過ぎないからであろう。



とはいえ、あとは来週末の口頭試問を残すのみ。それが終わると、大学院も終了。
様々なことがあった「THE学生生活」も単なる社会人生活に戻る。

安堵感か、寂しさか。 不思議な感覚を覚えている。
新しい年・新しい生活
新年が明けて早1週間。

年始休暇も通り過ぎ、仕事も始まりトレーニングも再開。「修論の存在」もあと数日間は変わらない。

(敢えて変わったと言えば、正月による身体の弛み?! 確かに、スイム再開時はキツカッタ。)


振り返ると、昨年9月の公私共にトンネル入りしてから長かった。様々な課題が5重苦となって降り注ぎ、自分の弱さを叩かれアンダーな期間が続いた。正直、今回はなかなか効いた…ボディブローのようにジワジワと。厄年がフライングしたのかと思ったほどだ。


でも、やまない雨はないし朝が来ない夜はない -そう言い聞かせて、コツコツひとつひとつ解決していく。


それしかなかった。「行動するところにのみ、光あり」・・真実はただそれだけ。

師走にようやくトンネルを抜けた。逃げても卑屈になっても他責にしても解決しないことを、改めて理解した時期でもあった。そしてこうした苦難に「(意識的に)感謝する」のではなく、『自然と素直に感謝』できるようになれたことも。





今週木曜日に論文提出日を迎え、来週末の口頭試問が終われば、実質的にはあと数日で大学院生活が終わる。


誰かが言っていた。「また大学院前と同じ生活が続く…」と。確かに、MBAを取ったからといって劇的に何かが変わることはないだろう。MBAは単なる知識を基にした思考変化のきっかけに過ぎないのだから。

非難を覚悟で表現すると、「MBAなんてナンボのもん?」。特に理論をケースタディで身体で染み込ませ叩きこむことなくして、MBAの価値は低い。所詮知識は忘却曲線上にある一瞬の光に過ぎない。ゆえに、MBAを「通い切りました」というほうが余程適切だろう。


僕にとってはここで得たものは絶大なる宝物だし、キャリアに人生に多大なる影響を与えていると感じている。

尊敬する教授たちとの出会いと信頼関係・心を許せる大切な仲間との出会い・修士論文による経験則の理論化と強化・思考スピードと深度のさらなる上昇・そして自身の生涯キャリアの再確認。


ウン百万を支払った対価はPRICELESSであり、ROIは500%?ともいえよう。





新しい年・新しい生活が始まり、手の中には何が残るのだろう?


この2年間が無になることはないだろう。しかし、“本当に残るもの”は一体 なに?? 

僕は知識ではないと思う。そんなものは使う機会のない英語同様、使わなければ一瞬で記憶から消え去る。
「通いきった!」という自信?そもそも自信になる程度のことではない -時間さえ割けばどうにでもなる。


ハードなビジネススクールやレースの経験上、記憶から消え去ることがないもの、それはやはり厳しい環境下で励まし合い耐え抜いた「仲間=戦友」ではないだろうか。単に仲が良かった、というお友達ごっこ程度の浅いつながりは時間経過とともに瞬時に破綻する。


僕の中では、やはり濃い時間を重ねた自主勉強会とゼミのメンバー“のみ”が合致する。そして、しかもそれは人間関係を維持して初めて意義がある。途切れた縁など、想い出には最高だがその域を出ない。スルメのように、あとからジワリジワリとその真の大切さがにじみ出てくるだろう。


残された時間はあと少し。

最後までしっかりと絆を紡ぎ、信頼関係を深め、想い出を積み重ね、末永く戦友として切磋琢磨できる仲間となるよう情熱と愛情を注ぎ込んでいきたい。

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