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焚火で組織を変える社長の日記

〜 代表取締役・焚火研究家・大学院生・父親・トライアスリート、そしてサーファーとして。
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論文、再び格闘。
大学院卒業から1カ月。

仕事とトライアスロンのトレーニングを自分の中の言い訳にして、「お勉強」というものには向かい合うことを避けていた。

とはいえ実質的に学業から離れて3カ月、そろそろ人生の目標達成のために、次の一歩を踏み出さないとならない危機感を感じ始めた。


卒業時に、恩師二人に言われた言葉 「君にとって修士卒業は、スタートだからね」。

まさにその通り。僕はMBAという学位がほしくて院に進んだわけではない。MA(修士課程)からDA(博士課程)へ、そして大学関連で教鞭をとるための単なる通過点に過ぎないのだ。





卒業して1年間はある種の骨休めとしつつも、恩師からは学会の査読論文をできれば2本出すべし、と叱咤激励されている。今年中に1本掲載されるためには、夏前には提出しなければならない。

逆算して行動の優先順位をリスト化すると、実はゆっくり休んでいる暇はないのである。


早急に学術関連の恩師に連絡をし『査読論文対策会議』の開催をお願いすると、卒業生、しかもゼミ生ではない(!)にもかかわらず、すぐに快諾の返事が届く。業界でも大学でも重鎮的存在で権威ある方にも関わらず、一卒業生のために時間を割いて頂けることに心から感謝。。


大学院2年次になると修士論文がどのようなものであるかが何となく見えてくる。論文審査はあるものの社会人大学院ということもあり、そんなには厳しくない、という魔の囁きも耳に入ったり。

しかし、今僕が向き合い始めているのは学会用の査読論文である。学内の多少ぬるい既定の中で書き上げる論文と、学会というその分野のプロ・教授で構成されるメンバーによって審査される論文とでは、求められるレベルが異なるのは言うまでもない。

その査読に通らなければ、この先の人生の目標達成にもつながらない。





イチローの名言にもあるように、「一歩一歩の積み重ねが、こんなにも遠くまで連れてきてくれた」:つまり一瞬一瞬の積み上げでしか、目標には届かない。

そしてその根源にあるのは、「行動あるのみ」。どんなに高い志を掲げても、どんなに熱い闘志を燃やしても、具体的な行動に移さない限り『一歩』にはならない。その意欲と覚悟と勇気の気の遠くなるような積み重ねだけが、目標の成就に効くのだ。


まさに最近の流行り言葉 -「いつやるの?今でしょ!」はまさにド真実。


たかが1万5千字。論文とトレーニングのバランスを取りながらくらいできるはず。

さぁ、「今夜からでしょ!」
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1993年 マドリッドにて
友人がポルトガルからSNSをアップデートしてきた。
それ自体は珍しくはない。しかし、その文中にあった言葉に目が留まった。

「20年前は話せなかったスペイン語も分かるようになると、旅もガラリと変わる」と。

20年前…?  フと想い出した。

その人とは、まさに20年前の1993年、マドリッドで出会ったのだった。

その後バルセロナ、そしてニースまで数日間共に旅したことを思い出し、挨拶メールを送った。
1996年に一度京都でも再会したが、それ以来だと17年ぶりやり取りだった。



1993年2月、パリから夜行列車でスペイン入り。降り立った最初の地は『ビスケー湾の真珠』と呼ばれる街、San Sebastian。

温暖な気候で美しい海に面したこの街は、スペイン国王も休暇に訪れるという。寒かったパリとは異なる雰囲気に、とても居心地がよかったことを記憶している。そして当時、その人を含める旅で出会った人に、その感想を伝えていたのだろう。

「San Sebastianが良かったといっていたのが印象的で、記憶に残っているのでこの旅で訪れる予定」というメッセージが返ってきた。20年前の旅の記憶 -非日常だからこそ、刻まれる様々な思い出や言葉。


1990年代当時は、まだITがそんなには進んでおらず、手紙や電話が主要な手段であったが、こうしてネットが普及すると、人とのつながりは爆発的に近くなる。

ネット時代の旅は、出会った人と容易につながることができるという点においては、また違った醍醐味になるのだろう。。。




そしてSNSを介してお互いの近況を伝えあう。

20年という月日が流れても、何となく当時のトーンが感じられる。その人も大学院を卒業して、現在はラテンアメリカで開発援助の仕事に就いて頑張っているという。きっと笑顔もあの頃のままなのだろう。

なんだか心が温まる。


僕は2000年のコスタリカ~ベリーズ間の中米縦断の旅で海外放浪をやめてしまった。
やめた、というか、そんなに興味がわかなくなったという方が正しいか。

それから10年近く、訪問国総数は47でストップしている(そんなものに価値はないが)。


20年前。自分は何を目標に生きていたのだろう。
20年後。自分は何を目的に生きているのだろう。
ライフガードたる者…
波乗りを始めたのは1994年の夏。

当時まだマイナーなブギー(ボディボード)にはまり、その後数年でショート → セミロング(240cmくらい)、そしてロングボード(300cm)に落ち着いたのが1997年 - それ以降15年もロングに乗り続けている。


生涯の趣味である波乗りと共に、なにか人の役に立てられないかと感じはじめ、取得したのが「ライフセーバー」の公認資格。

ライフセーバー = 一般的にはライフガードと呼ばれ、海水浴場で真っ赤な「Theブーメランビキニ」に顎ひも付き黄色い帽子をかぶって、背の高い椅子に座っている、いわゆるアノ真っ黒星人である。

これはフィジカル(泳力)な事前受講水準をクリアして初めて、9時から17時までみっちり5日間のスクーリングを受講できる。救助方法のみならず、海の知識、止血の知識、泳力x走力も試される過酷な訓練である。


当時28歳だった僕は受講生の中でもかなり「年寄り組」に属していた。社会人が週末どこかの海水浴場でライフガード(しかも基本はボランティア)をやるなんて考えられないのだろう…若い大学生に交じって肩の狭い思いをしたことを記憶している。



その中のライフガードの試験に、『ラン・スイム・ラン』(通称:ランスイ)という種目がある。その名の通り、砂浜を一定距離走り、そのあと海上に浮かぶブイまで泳いで岸に戻り、さらにまた砂浜を走るという、息も絶え絶えなメチャメチャ過酷な種目。ドエムに見えたその時の若い講師がこう言ったのを今でも覚えている。

「ランとスイム、そして精神も同時に鍛えなければ、命は救えない!」


確かにおっしゃる通り。海難事故はスピードが勝負。ゆえにタフでなければその資格はない。当然なのだが、そこまで自身を鍛える姿がとてもカッコよく見えた。なんとか受講を終え試験をパスして、2001年9月に正式なライフガードの資格を得たのだった。


それから12年 - その資格を活かすシーンにも実際の救助現場にも出くわすこともなく時が過ぎた。唯一、心肺蘇生法を理解していることで、たまたまTV取材現場に出くわし放映されたくらいか。笑



仕事とビジネススクール一色の期間が続き、波乗りは時々気分転換に行くが、年に数回になってしまっている。そして30代中盤からはアドベンチャーレースに注力し、今は同時並行でトライアスロンのデビューを控えている。しかし先日、トレーニング中にふとそのライフガードの訓練を思い出した。

それは、2か月後に迫った大会に向けて、「デュアルトレーニング」つまり2種目を連続してトレーニングする(バイク→ランとかラン→スイムとかトランジット=着替えを含めて間髪入れず行う)スタンスに変えた時である。

その日は <ラン6㎞ → スイム1.4㎞ → ラン2㎞>を70分でフィニッシュ。身体はまだイケルと言うが、オーバーワークをしないよう抑えたものの、まさにライフガードの試験であるランスイの長距離バージョン。しかし当時28歳だったころと比べると、圧倒的に体力・筋力がついているのが実感できるから不思議だ。


「ジンメイキュウジョ」なんて大げさなものではないけれど、優しくあるためには強くなくてはならないと思っている。強さとは、フィジカルとそれ以上に精神的な「強さ」 - その強さが、誰かを守りたいと願う時に自然と言動としてにじみ出るものが「優しさ」。



今はもう海のライフガードとは言えないけれど、今のタフネスが誰かを守る原動力になることを願いつつ、トレーニングに励みたい。

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