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焚火で組織を変える社長の日記

〜 代表取締役・焚火研究家・大学院生・父親・トライアスリート、そしてサーファーとして。
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英語は本当に必要か
今月中旬に発売されたビジネス雑誌「東洋経済」は久しぶりに面白い。

タイトルは「教育」の経済学(宣伝しているわけではない)。

学力などの認知スキルと人間力のような非認知スキルのバランスを説いた記事だ。小さな子供を持つ身としては非常に興味深い。

出生率が下がっていけばその分教育投資が効率的になるわけだし、よく叩かれがちな学校教員のテイタラクを回避すべく、「いい学校」に入れたがるのは頷ける。まぁ何を持っていい学校とするのかも考える必要があるが。

その話題はとりあえず別の機会に置いとくとして、記事に続いて「加熱する英語教育」というタイトルが踊っている。こめかみに皺を寄せながら完読した。



それによると、2020年度から小3で英語の授業が始まり、小5から成績付与の対象になるという。よって、小学校低学年から英語教室に通わせるビジネスが加速していることを述べている。国語や算数などと同じように英語という科目でいい点数を取るために、教室に通わせるというのは至極当然かもしれない。英語塾には追い風ビジネスだ。

ある英語塾では、「論理的思考」「問題解決能力」「想像力」「革新性」を英語を通じて学ばせるなんていうところも紹介されている。学校外で英語をというものに触れるにすぎない場所で、そんなことまでできるのか、そもそもそんなことまで研究されたプログラムなのかと根本から疑ってしまうが。

その是非はさておき、身の廻りでは幼稚園から英語を学ばせる方も多い。実は、僕はこれにだけは非常に懐疑的なのである。いや、他人に文句を垂れるわけではない。でも首をかしげざるを得ない。

理由は3つ。



まず、言語の優先順位の問題。
日本語すら十分に学べていない状態で、英語を加えてどうするのか?昔の部下で、両親は日本人、そして日本生まれ100%日本育ちのアメリカンスクール出身の部下がいたが、英語も日本語も中途半端でビジネスには使えず、ついでに日常習慣も中途半端…とどうにもならない女性がいた。みんながそうだとは思わないが、複数の語学習得の前に、日本語を学ばせ、そして情操教育に力を注いだ方が、中長期的に見て子供は幸せなのではないかと僕は思う。

次に、英語を学ばせる真の目的の問題。
なぜ幼少期に英語なのか。その目的は?発音は幼少期でないと、と聞くが、それがどれだけ重要なのか。文法?そんなのはどーでもいいと思うのだ。考えてみれば英語を母国語とする国なんてほんの数ヶ国。しかも、彼ら自身完璧な英語を話しているわけでもない。それ以外の人は第2外国語として滅茶苦茶な英語を使うが、それでも十分に通じ合える。つまり語学はコミュニケーションの手段にすぎない。異文化や人種の枠を超えて、表情豊かに誰とでも接する人間力の方が圧倒的に重要だと思うし、その能力ありきのコミュニケーション手段だろう。英語が話せるとなんかいい!という感覚的目的論の押し付けに近い親のエゴが見え隠れするのは僕だけだろうか。

最後は、英語の習得時間限界の問題。
1週間のうち英会話に1〜2時間費やすだけで、何が学べるのか。英語はボチボチ堪能でTOEIC900以上取得しているが、経験則的に語学の喋る・聞く・話すは圧倒的に時間比例するもの。極論だが、仮に起きている時間を1日15時間とすると1週間で105時間。そのうち1時間英語をやっても覚醒時間の1%以下である。たった1%だけに費やしたところで、ぶっちゃけ時間と金の浪費以外の何物でもない。当然これは幼少期の英語学習だけに限った話ではないが。ちなみに、僕の相方は親の仕事の関係でニューヨークで生まれて小学校1年生まで海外で育ったいわゆるザ★帰国子女。そしてその後日本で大学まで普通に英語を学んできたが、今は片言すら話せない!


なにも幼少期の英語教育に反対しているわけではない。情操教育や基礎教育を十分にやった上で、さらに経済力と時間に余裕があるなら、やらないよりやった方が”幾分”マシだろう。今や語学はできるに越したことはない、海外旅行にせよ学校の成績にせよ。事実、僕自身大学院博士課程では読むのは海外論文ばかりだし、国外で学会発表したりするのには役立っている。

しかし、である。個人的見解にすぎないが、グローバル化が叫ばれ、猫も杓子もえいごエイゴ英語というが、それ以上に、雑誌に特集されていた人間力という言葉に表される「非認知スキル」、学校の授業風な言葉だと「道徳」の方がこれからの世界をたくましく生き抜くために重要だと思うのだ。

教育のあり方を、あらためて考えさせられた記事であった。
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焚火と仕事と論文と
8月下旬から弱気になった夏がそのまま逃げ切り、秋へと加速。
着る服のゆるやかな変化で季節を感じるが、それ以上に焚火を囲んだ時の感覚が違うのがわかる。

毎月結構な頻度で色々な人と焚火を囲むが、囲む距離感や空気感・温度・心地よさが日を追うごとにまろやかになっている。火の暖かさと気候のバランスが取れる、最高の時期。


そんな中、1通のメール。ある雑誌社から焚火 × 教育について取材の依頼が入った。

3台所有する焚火台のうち、最もシンプルな1台と薪、鉈、火箸、革手袋、そしてコーヒーセットを持って取材地へ。前日までの雨が止み、どこまでも透き通った青空の下で午後一からトワイライトタイムを狙い、夕闇に包まれるまでの5時間の大掛かりな取材。

もとラジオディレクターだった取材担当は、まずごっつい本格的なボイスレコーダーをセット。なぜコンサルティングと焚火なのか。焚火の効果とは。その背景に流れる理論とは。彼も焚火の常連だけに、どんどん話が進む。そして、陽が傾き空を朱色に染める頃に、僕は焚火をおこし、彼は三脚にデジイチをセット ー 撮影タイム。コーヒーを片手にさっきの話の続きに花を咲かせる。



取材&撮影との同時並行で、論文の第2の締切も刻一刻と迫っていた。査読者からフィードバックが入り、悩みに悩みながら推敲している最中。海外の文献、しかも1950ー1980年代物を探して読み、読んでは探して論文を練る…の繰り返し。

一度仕事から論文モードに頭を切り替えたら、集中しないと2万字の全体ロジックからすぐズレてしまう。一気に推敲するために、できるだけトイレも行かず 最低4時間 / 1サイクルのスイッチのONに。夕食後に取り掛かる日は就寝時間が2時やら3時やらになるため、睡眠サイクルも思いっきり狂う。

そして、ある程度カタチになったら、1日ほど完全に論文から遠ざかりハムのように?熟成させる。この熟成期間で視野狭窄に陥りがちな頭をリセットし、再度執筆と推敲を行う。そんな日が2週間以上続く。



とは言っても、ほとんどの週末は焚火合宿で埋まっている。なんだ、このドタバタは。涙

でも、それも有機的な関連があることが救いである。仕事と同時に現場からデータを収集できるからである。

そのデータによって、参加者の合宿中の理解度や凝集度を確認できるため、確実な成果につなげられるだけでなく、そのデータ単体をまとめれば、そのままクライアントへの報告書類にもなる。そして、そのデータを何十社と蓄積していくことにより、独自理論を実証するデータにもなる。1石3鳥なのだ。


そんな風に知らぬ間に時が過ぎ去ってゆく。今はジッとバネの「ため」を作る時期、そう割り切って1mm、1mmと努力を重ねて行くのである。

いつ弾けるかわからないが、重ねていくのみなのである。
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